天界の音楽2「天体の音楽;ヨーゼフ・シュトラウス」

7月2日以来のこの企画(笑)

今回紹介する曲は

ウィーンフィルのニューイヤーでも度々取り上げられることのある

ヨーゼフ・シュトラウスの「天体の音楽」です。


ニューイヤーではカラヤンクライバームーティのタクトで聴いています。



☆ ☆ ☆


 まだ星を眺めるようになってから間もない小学6年生の頃、石田五郎先生の『天文台日記』に触発されて、深夜喫茶のまねごとで星のBGMを探していました。当時はホルストの『惑星』を兄から教えてもらい、他にも宇宙をテーマにした曲を探してみたものの、なかなか見つけることはできず、宇宙戦艦ヤマトの音楽集というLPを兄から借りて聴いたりして我慢していたものです。

 そんな中、ラジオ番組を眺めていて眼に留まったのがヨーゼフ・シュトラウスの「天体の音楽」です。そのものズバリ。しかし、曲を聴いても「どこが天体なんだ?」という印象しか無く、ホルストの金星や土星海王星と言った神秘的な雰囲気(宇宙のイメージってそんなもの?)の曲を探していた私にとって、この曲は「つまらない」音楽として映ってしまったのです。


 しかし、当時はまだ宇宙のことをあまり知らなかったし(まぁ、今も…)、音楽の世界にもほとんど入ったばかりで、聴いている曲と言ったらホルストの「惑星」と、カップリングで収録されていた「グリーンスリーヴスによる幻想曲」ぐらい。そんなヤツに何がわかるのだ?と言ったところでした。


 今この曲を聴くと、当時の人たちが思い描いていた宇宙観というものが目の前に浮かんでくるし、天球に踊りだしてくる星座のキャラクターたちの姿を思い描いてしまうほどです。

 ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)がこの曲を書いた1868年、当時の宇宙観は、すでにコペルニクスの地動説が人々の中に受け入れられているとはいえ、やはり宇宙は今よりももっと身近で、星の運行が人々の運命を左右するだけの距離に宇宙はありました。日が東から昇り西に沈む。星々が北極星の周りを巡る。いくら天文学の世界が地動説を訴えた所で、やはり日常の生活で眼につくのは天球の巡りでした。


 作曲者のヨーゼフは「天体の運行を大きなハーモニーと考えて」曲想を練ったということですが、宇宙は作曲家にとって大いなるインスピレーションの源泉なのでしょうか。マーラーの8番目のシンフォニーを作曲した際に、同様のことをコメントしていますが、2人の対象の捉え方には大きな違いがありました。

 ヨーゼフの曲は人々の目が見た星空の、星座たちの舞踏会であって夢の劇場の世界。マーラーの音楽は、そうした庶民のあいだに信仰しているような民話とかおとぎ話とかの世界ではなく、物理や力学が働く天体の運行を司る「力」を扱ったような音絵巻になっています。そこに人間の合唱を施すと言う仕掛けは、まさにマーラーならでは、圧巻としか言いようがありません。


 そうした文化や思想などを理解した上で、この曲に耳を傾けたとき、稲垣足穂の「一千一秒物語」の中に登場する世界が目の前に広がります。

 プラネタリウムの星空投影のごとく夜の帳が降りると同時に、星々の間から大きなゼンマイ仕掛けの天球がガタゴトと動き出し、ピカピカしたブリキ細工の星やつきたちが日周運動を始める。フルートの音色が徐々に暮れゆく空を奏で、ハープが星々のきらめきをなぞる。ストリングスの澄んだハーモニーが暗く透明な星空を招く。そしてギリシア神話では仲の悪いキャラクター同士が仲良く並んでワルツを踊り、悪者や嫌われ者たちでさえ、その輪の中に入って楽しそうに振る舞う。獰猛な野獣たちも女神の足下で子猫のように戯れつく。そんな賑やかで楽しい天界の舞踏会をヨーゼフは描いてくれたのです。(とまぁ、こんな風に思うのは私の主観ですけど、こうやって聴くと楽しめます)

 そして最後にもう一度、夜毎繰り返され、天界の舞踏をしめくくるためにオープニングで奏でられた幕開けのテーマを全奏で盛り上げてお開きとなります。


この曲の素晴らしいところは、天候がどうであれ、巡る天球のワルツを楽しめる、というところでしょうか?☆☆☆